ソウルミュージックと私
ソウルミュージックと私 part2
ソウルミュージックと私 part3



ソウルミュージックと私【2006/4/3(月) 午前 2:07】

音楽にまるっきり興味と知識の無かった私は、高校生の頃から少しずつ洋楽を聴くようになっていた。
テレビやラジオではなくレコードでだ、もちろん英語なんて分らない、でも私には素晴らしい音楽に思えた。
白人の音楽だった、ロックと言うのだろうか、1960年代の終わり頃、街では危なげなダンスホールが流行っていた。真っ暗な店内にブラックライトで怪しげに光るサイケ模様が危ない雰囲気を漂わせて、地元のバンドの演奏で自己流に踊りまくる、たしか流行の踊りはあったようだが(ゴーゴーとか言っていた)、ほとんどの人が自己流だったのは東京の流行を知らない人が多かったんだと思う。私もその一人だった。
私は無頓着に生きて来たせいか正確な年は覚えていないが70年以前の話だ。
性格がそうであるから聞いてる曲のアーティストにもあまり興味は無かった、レコード屋で適当に視聴して気に入った曲を買ってきた、ショッキングブルー、スプートニクス、ベンチャース、グランドファンクなんかもあった。
後で友人に聞いた話だが、あのダンスホールで演奏していたのはローリングストーンズの曲が多かったらしい。
、 曲名もアーティストも知らないで、でも好みはロックだった私が、ダンスにソウルに目覚めDjになるターニングポイントは次回!


ソウルミュージックと私 part2【2006/4/4(火) 午前 0:51】

「Solomon Burke」
60年代アトランティックのディープソウル
ベスト盤で67年のヒット曲「TAKE ME」が素晴らしい。

多分71年か2年頃かと思う、職場の先輩が「お前の好きそうな店があるぞ!」といって連れて行ってくれた小さな店(東掘りの有名な漬物屋さんの隣の飲食長屋の2階にあった)が、私の人生を変えた。
カウンターに4個の椅子(ビールか何かの樽だった)他に客席はコの字形のソファーで小さな樽が4っツテーブル代わりにならんで10人も座ればいっぱいになる、皆ならんで座っている。
カウンターと客席の間のわずかな空間で3人の男が踊っていた!
今まで何処のダンスホールでも見たことの無い踊りで、曲で、踊りはめちゃくちゃカッコ良かった。
ヘイジュードがかかった、ビートルズではない!、迫力が違う!引き込まれるような歌いかただ。
すごい!。歌っていたのはウイルソンピケットだった。
ソウルミュージック&ソウルダンスと私の出会いでした。
もとジャズ喫茶のコノ店は音にも凝っており、JBLのユニットをビルトインしたサンスイのスピーカー2本に四角いスコーカーのついたスピーカーが2本、わずか6畳位しかない客席に4本のスピーカー、そしてヤマハのMC針を使ったレコードプレーヤー、アンプはオンキョーだったと思うがさだかではない。 なんと言っても目立ったのはレコードの音を丁寧に録音した2台の38オープンリールデッキでメーカーはアカイだったと思う。
ジェームスブラウンに始まりオーティスレディング、サム&デイブ、などのアトランティックレコード系、シュープリームス、テンプテーション、フォートップスなどのモータウンレコード系、そしてソウルミュージックにドップリつかってくるとR&Bといわれてたサザンソウル系のジョーテックス、スティプルシンガース、ルーファストーマスなどのスタックスレコードやHiレコードの曲を聴くようになった。
私のダンスの先生である3人のダンサーはこう言っていました、「ソウルミュージックは聴くだけでもいい曲だけど、踊るからいいんだ、只聴いているだけじゃあ半分だよ。」
1950年代後期にビルボード誌にて、「レイスミュージック」から「Rhythm&Blues(R&B)」と名付けられたアメリカの田舎発の黒人音楽が「ソウルミュージック」として60年代に世界に響き渡り、70年代初頭、新潟では、東堀のほんとに小さな店からディスコミュージック(ダンスミュージック)としてのソウルミュージックが広まって行きました。 ゛


上に戻る

ソウルミュージックと私 part3 【2006/4/5(水) 午前 0:38】

「Three Degrees」
ルーレット在籍時代に出したアルバムでヒット曲メイビーを含むもの
彼女らがフィラデルフィアインターナショナルで「Dirty ol' Man」のビッグヒットを出す前のものです。

70年代初期の日本は戦後の高度成長期で街は人であふれれていた。
ウイスキーのボトルキープが5000前後、お茶を飲むといって喫茶店でコーヒーを飲む、たしか2〜300円だったような気がした。
コーヒー1杯で4人がけの席をカップルで2、3時間話し込んでいるのが当たり前だったから、のんびりした時代でもあったんだと思う。
物価はどんどん上がったし、音楽も色々なのが流行った、グループサウンズにフォークソング、演歌に歌謡曲、テレビの音楽番組では色々な音楽が聴けた、日本の曲ばかりだったけど、、、、。

当時のダンスホールは不良の溜まり場、危ない場所、一部の若者しか行かない所、ってな認識だった、入り口から店内までは長い通路があり、真っ暗な通路にはサイケ調の蛍光色の模様がブラックライトで怪しく光っていた、もちろん店内も暗い、ステージにはバンドがロックをガンガン演奏し、強烈なストロボで踊ってる人々が浮きあがる、ストロボが消えるとブラックライトに隣で踊ってた娘のシルエットが光った。(Ps、化繊のTシャツはブラックライトに反応しないで中の綿100%の布が青白く光っていた(~_~)v。

さて、話を主題に戻そう、東京では新宿などでもソウルミュージックを流し流行のステップダンスを踊る店があったんだが、そこは新潟なんで、なかなか流行が届いてこない、 ジャズ喫茶などの、たいそうなお店はいくつもあったようだ、そこではJBLやアルテックやタンノイなんて高価なスピーカーから高尚な音楽が流れていたに違いない。
ソウルを聞けるお店というと、無い!東掘りのあの店以外には黒い曲を聞けるみせはなかった。
74.5年位に新潟にもディスコと言うものが出来ました。もちろん東京資本で出来たばかりの万代バスターミナル隣のホテルの地下をワンフロア使って、翌年には六本木のディスコの帝王が古町に進出してきた。
そこでソウルが流行ると思いきや、時代の流れは大衆文化、ポップスへと向かっていったのです。
(くすん;_;)゛


上に戻る


ディスコの話へ


トップページ