万代に出来た巨大ディスコ4
古町に出来たジュータンディスコ2
古町に出来たジュータンディスコ2



万代に出来た巨大ディスコ4 【2006/4/16(日) 午前 1:40】

万代に出来た巨大ディスコ4、、、よん、、いい加減に次行けよ!(>_<)

っででも、もう少し、まだまだ話したい思い出が、、、っていうかオハイオプレイヤーズの初期のLP 探してたら、面白いのみつけたんで、画像のUPをと!
この当時、ピープルのために親切なレコードがいっぱい出てたんだよね、ディスコ何とか・ソウルなんとか、ってタイトルのオムニバス盤。 たいてい半分はオリジナルアーティストではなくスタジオミュージシャンのそれもインストだったりしたもんだ。
これは75年に日本ビクターがリリースしたモータウンのオムニバスその名もDISCO SOUND さすがアーティストのいっぱいいるレーベルだけあって全曲オリジナルです、ジャケのデザインはエモリアイさん。
1、YOU HAVEN'T DONE NOTHIN'/STEVIE WONDER
2、MACHINE GUN/COMMODORES
3、STOP! IN THE NAME OF LOVE/DIANA ROSS &THE SUPREMES
4、FUNKY HORN/EDWIN STARR
5、DO IT BABY/THE MIRACLES
6、BOOGIE DOWN/EDDIE KENDRICKS
7、GET READY/REA EARTH
8、THE BUMP/COMMODORES
9、SUPERSTITION/STEVIE WONDER
10、DON'T KNOCK MY LOVE/DIANA ROSS &MARVIN GAYE
11、VIRGIN MAN/SMOKEY ROBINSON
12、DANCING MACHINE/THE JACKSON 5

まっ、75年にしては曲が古いんだけど、ソウル好きで踊り好きにはかなりの代物だと思っている。 この手のディスコ物は何枚か当時買ったんだけど、けっこう曲がダブルんだ。そして半分使えない曲が 多い中、私的にはソウルな一枚だと思う。


上に戻る

古町に出来たジュータンディスコ1 【2006/4/23(日) 午前 2:59】

万代のインペに少し遅れて75年に古町大竹座2階に出来たのが最後の20セントだ。

六本木の帝王といわれた日本レジャー開発のディスコチェーンで後にマハラジャ等を展開していく会社だ。
私は77年に新潟でプロのDjとしてこの店からデビュー!この頃はバンドのステージがあって、その片隅に風呂屋の番台見たいな四角い一段高いところがDJブースだった。
照明はスポットライトが点滅するだけのお粗末な物でターンテーブルはオートの素人用。
ミキサーは手作りみたいな小さい箱にダイヤルが付いていて右に回すと右の音左に回すと左の音
それまで縦フェーダーに慣れてた私は最初戸惑ったが直ぐになれた、今で言うクロスフェーダーだヘッドフォンはちゃんと有った。
店内は1フロアに2階を作って周りの客席はかなり天井が低かったが真ん中のフロアは掘コタツみたいになっていて天井も高く快適だった。
フロアはもちろん、ぜーんぶジュウタン、(トイレ以外は)入るとき靴ロッカーに100円入れて入るんだ、靴下も売っていた。気楽に楽しめる明るいお店、喧嘩は表ではほとんど無かった!?。
ドナサマーの「once upon a time」ビレッジピープルの「san francisco」など、それまでのステップに変わるオカマ系のポコダンス?など飛び跳ねるような踊りが流行った。
もちろん映画サタデーナイトフィーバーのおかげでステップダンスも健在だったな。

この店には、ウエーターのショータイムがあった。
私がDJで入ってからバンドの時よりレコードの時が圧倒的にみんなが踊るので、バンド無しでってことになり、変わりに、東京のほうで受けていた、ショータイムが導入された。
面白かったよ、とにかく笑った、私も踊らされた、変な服着せられてファンキーダンスを!おかげで少しもてた?

で、しばらくして、店儲かってたから、ステージを取っ払って照明キンキラのダンスフロアーと一番奥にステンレスに囲まれたピカピカのDJブースに変貌したんです。(~_~)Yei
ターンテーブルはピッチコン付きのSLだった。
ミキサーは、、、やっぱり自作っぽい奴でしたが縦フェーダーでサブミックスも付いて使いやすかった。
なっなんと!このミキサーはフェーダーと配線だけでバッファアンプなどの回路が一つも付いていなかった。
ターンテーブルからプリアンプを通ってミキサーで入力切替てパワーアンプへって感じ!
すげー単純なやつ!でもシンプルだから音は良かったよ。ノイズ対策のコンデンサーは付いていたと記憶している。
※メーカーとかは気にしなかったけど後にジジックの替わって名機SSRが入るんで、同じ会社だったかもね?
つづく、、、。


上に戻る

古町に出来たジュータンディスコ2 【2006/4/25(火) 午前 1:48】

続いてきました、先週から、、、、2千円、?ではなくって20セント!

最後の20セントが六本木に出来たときはかなり高級な店だったらしい。
それが踊れるジュウタンパブに変身して全国に広がって行った訳だが、新潟のお店がステージを取っ払っている間、仙台の20セント経由で東京に行っていた。
もちろんディスコ回りだが、仙台は20セントがあったんで寄っただけで、直ぐ東京へ。
新宿のアフロレイキは終わりそうな雰囲気だった。DJブースがクレーンで上から降りて来るやつで、これが狭いし揺れるしで回してても落ち着かなかった。
この当時まだ曲のビートを合わせて繋いでるDJはほとんどいなかったんだけど、一部の店では(ほとんど外人のDJだったが)繋いでるところがあった。赤坂のムゲンとかムゲンとかムゲンなど??あれっ みんな忘れちまったな店名!他にもあったんだけど??。

六本木プラザにあったエルコンドルで黒人のDJがブースに入れてくれてテクニックを見せてくれた。
繋ぐ直前にヘッドフォンをはずしてモニター代わりに私にも聞こえるようにしてくれた。
喋りだしたとたんにビートが合ったまま次の曲が入ってきた、黒人だから、やっぱり英語で!・・ 喋り終わったときには曲は変わっていた。
頭だしやビートを合わせるところは分らなかったが、その繋ぎ方は衝撃だった。
エルコンドルの上にあったサハラでは日本人のDJが古いスタイルでやっていた、ここで回してるとき、 無理に繋ごうとしながらトークを入れてたら、白人の女にうるさいと言われた。しょっく!(>_<)

新潟に帰ってきて早速、曲を繋いでかけるって事に挑戦した、まっ最初はカットインがほとんどだったけど、スリップマットも無い時代だったから、いろいろ苦労したし手本が1回見たきりの黒人DJの繋ぎ方だけなんで自分で考えるしかなかった。
でも取り合えづ最後の20セントで77年の後半には曲を繋ぐって事をし始めていた。
(下手だったけど)
もっともステップダンスがまだまだ流行ってたんで繋いで回すってのはあまり意味がなかったような。

ハローミスターモンキーに始まるアラベスクの数々のヒット曲のようにキャンディーポップなるハッピーな曲が大うけの時代である。
DDサウンドの1234ギミーサムモア。サンタエスメラルダの悲しき願い。
ボニーMのサニー・マ・ベーカー。ホットブラッドのソウル・ドラキュラ。
肩をゆすって踊る変わったダンスも流行った、マイケルゼーガーバンドのレッツオールチャント。
サタディーナイトフィーバーのサントラでリバイバルヒットしたのはビージーズのユーシュットビーダンシン。スティンアライブは映画のステップを覚えて講習会を開いた。
そう、70年代中期からはキャンディーポップの時代、(新宿と地方では)

そうそう、ピンクレディーもすごかったな彼女らの振りをまんまディスコで踊るんだ。
当時流行った、肩に布の無い胸から下だけの服・・・なんていうんだっけ。キャミソールの紐の無いやつ ?流行ったよな。あれでピンクレディー踊ってた。((((●_●)))
この後アバやノーランズやニュートン・ファミリーなどが出てくるんだ。ドゥリーズも。

つづく。。。。。。。

PS先回のレコードはポコダンス全盛期に流行ったドナサマーの5枚目のLP
今回のレコードは後にYMCAのビッグヒットを飛ばすビレッジピープルのファーストアルバム。
リッチファミリーを手がけたジャックモラーリの企画グループでオーディションで集まった6人。
コンセプトはゲイ。ニューヨークのゲイに人気のある、警官、カウボーイ、工事作業員、インディアン、ヘルスエンジェル、そしてネイビーの衣装でデビュー。
A面はサンフランシスコとインハリウッドの2曲だけノンストップでつながっていた。
この曲かければみんな踊ったんで、トイレに行きたくなったら、これ。ちょっと用事のときはこれ!。 (なんせ、DJは一人だったんで重宝しました)
まる


上に戻る


前のページへ------ 次のページへ


トップページ