寄り道
ジュウタンディスコ 3
思い出の一曲1
思い出の一曲2



寄り道 【2006/5/2(火) 午前 1:58】

  

 

私はサンゴを飼っていましてこの度水槽を取り替えるのに押入れを整理しました。
サンゴは大変手が(金が)かかる道楽なんですが、楽しんでます。
サンゴはおいといて、昔使っていたシングル盤が出てきました。
と言っても、ちょっとだけなんですが、20セント時代のを少しアップします。

※サーカスは私が初めてPAを勤めたアーティストです。まさにこの曲でした、「ミスターサマータイム」
あっ、ちなみにサンゴは僕のホームページに少し書いてあります。


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古町に出来たジュウタンディスコ 3 【2006/5/6(土) 午前 2:19】

  

(最後の20セント全盛期) 

今回のレコードは最強キャンディポップだ!!!!
(ジャケ汚れすぎなんで修正しました、ハローミスターモンキーちょっと変)
そう、映画サタディナイトフィーバーが公開された前後、新潟のディスコは万代のインぺに変わり 「最後の20セント」の時代だった。

また、小さいディスコはいろいろ出来たが長続きせづ無くなっていった。

セントと同じビルの6階に新潟の夜を牛耳っていたサン?ア系列のディスコがオープン、
東京から来てた知り合いのDJだったので行ってみた。
んあった、、あ----た。トップレスのお姉さんが、闊歩しているじゃーあーりませんか。 (~_~)
ビール持ってくると、ジョッキより胸に目が行って、落としそうになる、危ない!
違う世界だった、2度と行かなかったが、直ぐ無くなった。 今だったら毎晩行くかも?
後にアメリカントマトって名前でけっこう良い店になります。

このトップレスの後、この会社は東堀に、系列クラブ(お姉さんのいる)だけの入ったビルに 小さいお店を出しました。すまん、店の名前が出てこない!
インペ時代に東京から来たDJの影響でファンキーな曲好きになった奴らが集まってた。
小さくて、ダンスフロアが2畳くらいしかなかったけど。スペースの3分の一はスピーカーだった。
当時、新潟の流行の先端を行く人種が集まっていた。 新潟のエンバシーってとこかな?

それから、セントのビルの三階にあった青春の里、深夜までやってたんで仕事が終わってからよく行ったよ。小さいけどファミリー的で良い店だった。
青春の里では女性DJ2人で回してた。 もちろん繋がないで、シングル盤の照会文読みながらね。
お客には常連のファンキートリオが居たり、ディスコジルバのメチャうまい子が居たり、面白い店だったよ、マスターも若い頃さんざん遊んだような、若者に理解のあるいい人だった。

最近の新潟では俺が新潟を作ったみたいにふかしているDJが居るけど!Djなってったっけ?
何にも無い時代から、ディスコを流行らせ作ってきた人々が大勢いる、不良の溜まり場と言われてた時代からディスコが市民権を得て一般の人が安心して楽しめるお洒落な場所にしてきた人々が。
流行を追っかけ、流行に惑わされながら、常にかっこよさを求めて。
名前は伏せるけど、私だけではなく、そんな奴らがいっぱいいた。
苦労なんて思ってなかったし、ただ楽しみたい、かっこよくなりたい、踊りがうまくなりたい、だけだったけど、みんな腹の底に新潟を良くしたいってのがあった!
。 よそでだめで、あとから新潟に流れてきて、そういう人達に敬意を持たないで偉そうな事をいっている奴がいる、知らないだろう、今の新潟になる前を!なるまでの歩みを!。

イヤー、昔、頑張ってた奴らを思い出して、マタ、脱線してしまった。年寄りの愚痴ですかねー。 m(_ _)m

この20セント全盛の時代に音楽的にレベルの高い店と一般客に合わした店に分かれていく。
ま、もともとクラブスタイルはそれが当たり前だったんだけどね。
そうそう、私が20セントにいる時代には曲の繋ぎはまだマスターできてません、当時のお客に聞くと、 ギューンって音が入ってから切り替わった。とか、えっツナイデタノ?って感じです。
縦フェーダーでカットインの滑り出しの音が出てたみたいですね。ちなみにこの時代にピッチの安定してる曲は皆無です。

あと、今でもそうだけど、ほんとにいい曲は頭から行きたい。 続く、、、(@_@)v


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思い出の一曲1 【2006/5/9(火) 午前 4:11】

Baccara 誘惑のブギー 

おかまダンスなんてのが流行りまして、地方では意味もわからず踊ってる奴らが多かったんですが。
カマっぽい踊りにもってこいの曲がこれでした、バッカラのこれ「Yes sir, I Can Boogie」後にユーロビーとでもでましたね。


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思い出の一曲2 【2006/5/13(土) 午前 1:04】

ダンス ウィズ ミー 

先回に続き、20セント時代にお気に入りだった曲の紹介です。
この時代、DJとR&Bマニアの両方だったんで、ディスコの曲は古くなるとほとんど常連にあげていました、が、気に入ったわずかな曲が手元に残っています。
と言ってもサンプルでもらった盤ばかりで、自分で買ったのは無いんだけど。

ピーターブラウン「Dance With Me」1977年 T.K Record
ビージーズやボズスキャッグス、レオセイヤー達ソウルっぽい白人達とは少し違い、AWBみたく クロッぽいを売りにした白人。
デビュー曲からソウルチャート1に上がり、そしてこの曲もって感じでしたね。
12インチがDJの間では人気でしたが、私はシングルバージョンのほうが気に入っていました。
なぜって?、踊ってみればわかるよ!
ダンクラでもこの曲たまにかけるけど、ファーストの方が個人的には好きです。
曲のジャンルはファンキーだと、ほとんどの人が言いますが、これはディスコミュージックでしょう。
当時はソウルの部類にチャートインしていましたが!
まさに時代と共に音が変わってゆきますね。アースもファンタジーでこの時代に思いっきりポップ思考になってくるし、この後クール&ザギャングも大変身するんですね。

ところで、この頃は良く東京に行っていました。
向こうの知り合いのDJのいるハコ(連れ回されたので店の名も場所もほとんど覚えていない、新宿や六本木ではなかった)で回したり、レコード屋回ったりで一日が終わり最後はやっぱり六本木のエンバシーに落ち着くって感じです。
この店は黒人の男と日本人の女がメインで日本人の男はあまりいなかった、当時私はアフロヘアだったのでカウンターに並んでる黒い皆さんに、俺達と同じだ!みたいに親しくしていただいていた。
日本人はファンキーだといってフレアーのジーンズにTシャツだったのに黒人の皆さんはディスコに来るときはスーツだった、彼らはお洒落してナンパにいらっしゃってたから、ファンキーなファッションなんて、ダサくてって思っていたみたいだ。
当時知り合った黒人の話!なぜ?日本人は一人で踊る?(今も昔も、なぜ?日本人は一人で?)
ピーターブラウンが流行った頃のブラックの流行の踊りはバンプからスパンクに移っていた、昔のハッスルもそうだけど、この流行の踊りは一人じゃ踊れないよ。

たまに赤坂見附のムゲンに行くとなぜか新潟のファンキー好きに出会うんだ。
この頃の新潟はファンキーダンサーには冬でした、なにせジュウタンディスコ「最後の20セント」ですから、靴下では滑ってうまく踊れない、で、東京まで足を延ばす、電車に揺られて6時間だったっけな。

ムゲンもエンバシーもカップルで行かないと恥ずかしい店でした、早い時間に新宿でおのぼりさんゲットして(当時の新宿は地方から遊びに来た若者と地元の中・高生がほとんどだった、あっおやじもいた!裏道のほうに!)六本木交差点近くのアス**ホテルにチェックインしてから出かけるってパターンが多かった。


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