ブラックバード
なぜステップ禁止に?
ブラックバードの照明
ステップダンスの話



ブラックバード 【2006/5/18(木) 午後 11:48】

1979年春西堀6番館ビル2Fに出来たのがブラックバードです。 

写真はDJブースです。
新潟資本による大型ディスコ、確か100坪くらいあっただろうか?
店内は当時の流行の鏡張りでダンスフロアには中央の大きな柱から天井の端まで赤、青、緑、の光が走り、周りにはフロアと天井にネオン管の光が回っていた。
DJブースはガラスで仕切られており、当時、六本木で人気のあったエルコンドルに非常に良く似ていました。
オープンDJは私が勤めたんですが。当時としてはお洒落な店で、音響も素晴らしい物でした。

インペのスピーカーはアルテックA7でしたが。そういえば青春の里もALTECだったと思う。
(アルテックA7は皆さんご存知の通り、ボイス・オブ・ザ・シアターと言われ歴史に残るPAの名機です。私は特にトランペットの音がリアルで好きだった。)

ブラックバードはJBLで、36センチウーファー2本がビルとインされたバックロードホーンの上に中高音用のホーンを置いた当時のJBL最強セットが2発。音はたいへん良かったです。(~_~)
この後、この店の音を超えるのは、同じ会社が東堀に出した、ヘラルド位ですね。

私は音楽が好きなんで、以前から音にはうるさい方でした、音の良い悪いを気にしない人もいますが、音楽をやる以上最低限、音にはこだわらないとって思っていました。
ミキサーはTEACの8チャン縦フェーダーでした、このミキサーは意外と音も良く使い勝手も良かったです。
ターンテーブルは最初オートの変なのが付いていましたが、直ぐに変えてもらいました。
テクニクスでピッチコンの付いたものがいろいろ出ていたんですが、ハウリングと高域・低域のシッカリ音の出るSP15にしました。当時で1台22万円くらいだった!
もちろんSL1200もあったんだけど音がぜんぜん違うんで、やめました。
プロユースのSPに対してSL1200はホーム用で値段の割には良く出来ていたけど、音がボケていてホーンの音が飛ばなく、低音の輪郭が出ないので楽器の違いが分りづらくハウリングに弱かった。
今は以前よりはましになっているし、生音のほとんど無い現状だとSLで十分だと思うが?(>_<)。
プリとパワーは国産では優秀と言われていた(今でも)ヤマハでパワーは200W×2!
「良いプリアンプ通すと音がリアルなんでヤマハ入れました」と当時のオーディオ店 の人が言ってました。なるほど。ベスタみたいな音じゃーJBLが泣くしな。

まず、私がこの店で最初にやったのは、ステップダンスの禁止とキャンディーポップの廃止でした。
大人の遊ぶ六本木風にしたかったのと、流行がブラックに傾いていたんで。
と言ってもポップを回さなかったわけではないけど、流行る曲はチャートに上がる前から掛けていたし。
古い曲を引きずらないで新しい曲でヒット曲を作っていったんです。
新潟のセンスの良い若者が集まってました。フロントの年齢チェックの厳しさは、かなりの物だったらしいんで、未成年者には入りづらい店だったらしい。
つづく!


上に戻る

新潟をリードしてきたディスコ【2006/5/20(土) 午前 4:44】

なぜブラックバードはステップ禁止に?

一言でいうと新潟のレベルを上げたかったって事です。

当時の私はR&Bマニアで踊りもソウルダンスからファンキーダンスまで新潟では、けっこう踊れるほうだったし、流行の踊りは全て知っていたんだ。
だから、めちゃくちゃリズミカルなファンキーな曲でも単調なフォービートでも雰囲気に合わせて踊れたんだ、当たり前のように。
ところが、ほとんどの人たちは、踊り方が決まってないと踊れないんだ。
それも簡単な踊りしかできない。75年以降のステップダンスは入門用の踊りになっていたんだ。
すっげーダサい(死語)と思った。(今でも踊りの下手な奴見ると「センス悪い」っと思って見てしまう)
もともとステップは黒人の踊りだったのが、日本で広まるにつれて歩くだけの簡単な踊りに変わってきた、黒人って独特の動きがあって真似するのが難しいんだ、だから一般に広まったら黒人くささが無くなり、踊りと言うより歩きになっていた。
白人の踊りと黒人の踊りがある。どちらも体全体で踊るけど、日本人は一部しか使わない、みんな同じでないとだめだ。=民謡です。
民謡から竹の子になりパラパラになった。日本人の踊り。あっチャンかっこいいー(((*u*))),,,
曲もポップになってきたんで、ちょっとセンスのいい奴らに流行りだしたのが白人系の踊り方、オカマダンスなんて言われてた。踊り方の流行は有ったがフリーに近かったよ、曲はドイツやイギリス系の曲だ。ドナサマーとかYMCA出す前のビレッジピープルとかもポップだけどその部類だった。
ところが、映画サタデーナイトフィーバーのおかげで廃れかけた踊りが戻ってきたわけだ。

地方のディスコはステップ踊る奴とオカマダンス踊る奴とファンキーダンス踊る奴に分かれてた。
もともと廃れかけたステップダンスだから長く続くわけが無いし、流行が変わってペアダンスの傾向に走ってた。
ブラックバードは初心者(ガキ)じゃなくって、ワンランク上のディスコにして新潟のレベルを上げたかった。79年の六本木ではステップなんて踊ってる店は無かったよ。
それとキャンディーポップはお子様の曲でみんながディスコって物を覚えるにはもってこいだったけど、いい加減次の段階に行けよって感じだったな、ポップでもいい曲いっぱいあるぜって。

ブラックバードでは流行を意識して選曲した、新宿のオカマ系の曲と六本木のサーファー系の曲の両方を取り入れた、それに私の好きなエンバシー系のコテコテもmake it FUNKY! なんてね。
六本木の輸入盤屋から新譜は取り寄せて、新潟のレコード店と提携して日本盤は発売前に全部聴いてピックアップした、だからビルボードのチャートに上がってくる頃にはバードで流行っていたよ。
地方のDJが偵察に来て、口をそろえて言ったもんだ、どうして最新の曲でみんなが踊ってるんだって。
新潟はすごいってね。

東京で流行る=ブラックバードで流行ってた。
それを常連に教える=踊りに合った曲をチョイス=直ぐ流行る。

エピソード(@_@)v
ハワイから来たフラダンスの一行が何処に行っても面白くなかったのに、バードに来たら向こうと同じ、流行の踊りをしているので大喜びしていったことがある。一人がその夜、私の家に遊びに来た、そしてハワイでDJするよう誘われたことがある。行かなかったけど!


上に戻る

新潟をリードしてきたディスコ【2006/5/31(水) 午前 4:17】

ブラックバードの照明

さて、曲の紹介ばかりしてきたんで(つい、いっぱいあるんで(当たり前だけど)見せたがる)
新潟をリードしてきたディスコってタイトルだし、次に行くのが自然なんだけど、、、、
もったいぶって引っ張っています。

万代のインペでしょぼしょぼだった天井のイルミネーション(青だったと記憶している)と
カラーのスポットライト(照明室の中からダンスフロアを照らす、フロアはけっこう暗めだった) 20セントでは、明るく、天井がけっこう綺麗な照明になり。
ブラックバードにいたっては周りにネオン管まで走っていた。

店内は明るく豪華にいたるところに金色の真鋳と鏡が使われ、60年代の危ない雰囲気はなくなって健全な若者の(・_・?遊び場になっていた。
ちゃんと風営法守って11時半には閉店してたし、18歳以下は絶対入れないぞって感じだった。
当時フロントに立ってた藤○さんは派手なスーツが自慢で(真っ赤とか青とか)いかにも水商売って感じだったんだけど、とにかく真面目で18禁を徹底的に守ってた。
それでもすり抜けて入ってた人たちは、ある意味すごい。
あっ照明の話だった。!(*^z^*)

当時、東京の方ではピアノタッチのスイッチを使ったコントロールボックスが有ったんだけど 新潟の照明技術はちょっと遅れていて、いかにも手製のコントロールボックスだった。
リレー回路をトグルスイッチで(2センチくらいの棒を左右に動かす一般的な切り替えスイッチ) パターンを切り替えていくんだけど、いっぱい数があってけっこう大変だった、上から照らすダウンライトもあったし、そうだ、鏡はダンスフロアの天井にも貼ってあった。
東京には床が光る照明もあったが、バードは普通のPタイルだった。
床に照明が埋まっているとつまづいて踊りにくいのと、ドライアイスで煙を出していたので床の証明には悪かったのかもしれない。

万代のインペは照明室が別にあり調整はあまりしないで時々変わる程度のワンパターン
20セントは、ブースにDJ一人なんで、これもけっこうワンパターン(オートで切り替わるのパターンが有った)
バードは真ん中の柱にも照明が埋まっていたし(もちろん鏡張り)ブースには必ず2人いて照明係をやっていた。
カラーの電球が上下に走ったり回ったり、色が同じ物が同時に点いたり消えたり。ネオン管にもパターンがあった。
全てパターンの切り替えは手動でした。
私は時々さぼって(ほとんど?)お客と飲むか、一緒に踊るかだったけど。

というわけでパーティーの時の写真が有ったんで「こんな感じでした」DJブースから撮ってます。


上に戻る

新潟をリードしたディスコ 【2006/6/9(金) 午前 1:45】

ステップダンスの話

ディスコの踊りの話です。※このブログでは新潟を中心に話が進んでいます。

70年代初頭、東掘りに有ったミニピートに出没していた東京帰りのトクさんを中心にした3人のダンサー 「ファンキーブラザース」って言ってたかな?
彼らが中心になって新潟の若者に東京で流行っていた黒人の踊りを教えてくれた。(ソウルダンスって言うんだ)

フリースタイルのファンキーダンスでは、全身の踊りで基本の形と動きを自分なりに変化させてバリエーションをつける。ポップコーンとかブレイクダウンとかホースやウオーターゲートやオールドマン、私の好きなファンキーブロードウェーにファンキーチキン。

ステップダンスでは、基本は黒人の歩き方にあった、それに手の動きがついていく、みんなで同じステップをしながら自分だけのバリエーションを入れて元に戻る、これがかっこいいんだ。
ソウルシシーで人気なのがストップインザネイムオブラブ、そうシュープリームスの曲で踊るんだ。ロックユアベイビーはソウルチャチャで、他にはファンキーフォーコーナーが人気だった。
ファンキー・ウォークやサイドウォーク。
曲ごとにステップがあった、新潟で作ったステップもあった。
JBのSEXMACHINEはヤンキーのお兄さんもおどっていたよな、JBって言えば、東京の方では彼の曲でステップが流行ってたけど、新潟では踊らなかった。みんなJBはフリーだって言って。

ステップもフリースタイルも、もともとはアーティストがステージでやった振り付けから来ていると聞いた。もちろん黒人のアーティストだよ。

ファンキーブラザースのノブさんは大のJB通でアルバムは全て持っていると豪語していた、彼の踊りはステージのJBそのものだった。彼はステップダンスも踊ったけど、JB命って感じでした。
ふくいさんは、ファンキーブロードウェーが素晴らしかった複雑なのに手の動きと腰の動きの一体感が素晴らしかった。
トクさんは全ての面でかっこよかった、動きが力強く柔らかい。一つ一つのポーズが決まっていた。 私はファンキーチキンとかショットガン、ゼア・ウォズ・ア・タイム、アイ・フィール・オールライト なんかでフリースタイルを踊っていた。

常連にロスから来た黒人のディビットがいたんだけど、彼は流行の踊りはしなかったが、 踊ると、とにかくすごかった、楽しそうに笑いながら踊るんだ黒人独特の動きがかっこよくって、 よく、まねをしたもんだ。(まねをしても、出来なかったけど)

70年代中期に入り曲がポップになっても踊りはステップダンスとフリースタイルだったが、どちらも踊り方が変わってきた。

フリースタイルは踊りが派手になってきて大きく手を広げるスタイルや飛び跳ねるスタイルが流行ってきた、私の考えるに当時のファッションも影響していると思われる。
実際に60年代のファッションと70年代のファッションでは踊り方が変わるんだ、変えないとかっこよく踊れない、踊れない人にはわからないと思うけど。踊れなくちゃ(上手に)。
当の黒人よりファンキーに踊ってたのは日本人だったかも?大阪人の好きなファンキーフルーツ!

ステップダンスは教えるときはソウルステップで教えるんだけど、習ってる人たちが一般ピープルで 黒人の動きなんか考えていないし、かっこよく踊ると言うより、覚えないと仲間になれないって感じなんで、歩き方覚えるので精一杯ってとこだった。
それとビートの速い曲が受けたんで、まともに踊れなかったと思う。
セクシーバスストップ、ポイント、ドゥ・ハッスル、ラブマシーンなどなど。
ウルトラバスストップなんかファンキー踊ってる奴らが踊ると別物に見えたもんだけどな。

70年代中ごろファンキー好きな奴は飛び跳ねてたけど、当の黒人さんは違っていた、バンプにスパンクやハッスル、ペアでかっこよくディスコジルバ決めたりマッタリとペアダンス踊るのが主流になっていたんだ。
そう、日本で流行った踊りはほとんどが横須賀あたりの米兵が持ち込んだものだ。
実際80年代になっても流行の踊りは海の向こうの人と一緒に踊って楽しめたし。
で、ここでディスコからステップダンスがなくなりかけるんだ、日本ではオカマダンスの流行でヨーロッパ系のポップな曲が流行りだす77年頃だったと思う?。(多分日本中で)
ステップなくなるかなーって思ってたら、サタディーナイト封切!!!(^o^)v
なんと映画の中には一昔前のハッスルとステップダンスが、、DJは古いスタイルだし!
こいつの影響で世の中にステップの復活(._,) バンざーイってか(>_<)
古い曲も復活って感じだった。(長くは続かなかったけどね)
ただし、この映画で踊ってるのは白人なんだ、黒人とは踊りが違う、意味わかるよね。
あまり上手じゃなかったし。で、それ見た人々があれで良いんだと思い込む。
(後年のブレイクダンスのほうがずーと良かった。)

この頃にディスコに入れない子供達が原宿で変な踊りを流行らせていた、奇抜か衣装に独自の踊り。
ディスコでは外国で流行ってた踊りを日本人が踊ってたんだけど、原宿の人たちは自分達で作り上げたんだ、流行の踊りなんか知らないし、彼らには関係なかったと思う。
独自の踊りを、素晴らしいと思う、でもディスコには受け入れられなかった。
あまりにも日本人らしい踊りだったから。

この後は、流行がオカマ(ヨーロッパ系)とサーファー(ブラック系)に分かれて行きます。
ステップではないけどみんな同じような踊りをするようになります(基本はペア)。
この時、竹の○さんたちは、何処の店でも出入禁止でした。

終わり。
気が向いたら続きを書きます。m(_ _)m ゛


上に戻る


前のページへ------ 次のページへ


トップページ